開拓者の道

お父様のみ言葉より

従っていく人は開拓者ではありません。開拓者というものは、先頭に立つ人をいうのです。歴史を引き継いであがめながら行く人は開拓者ではありません。そうでしょう? 歴史がない場で、歴史を創建していく人が開拓者です。ですから、学ぼうという動機をもっていく人は、開拓者だと言うことができません。そのような人は、ついていく人であり、まねていく人です。

開拓者には、歴史がないのです。決まった方向がないのです。自分自身が歴史であり、方向です。自分が誤った歴史の因縁に結び付けられるようになれば自分自身は自然に破綻し、方向が間違っても自分自身は木っ端微塵となり、その生命の本質も救い難いほど破綻してしまうのです。

ですから、開拓者に信仰の道があったなら、その信仰の道は絶対的な信仰の道なのです。水に溺れた人は助かる道を求めて、藁をも救いの綱としてつかもうとするのです。開拓者には、ついていく歴史もなく、見倣う見本もありません。自分自身が歴史であり、実体であり、自分自身が勝敗の決定を備えなければならない立場であるので、どれほど深刻かということです。開拓者とは、そのような道を行くのです。(四五・三一六)

カナン福地に向かって歩んでいく四十年荒野路程において、日々過ぎていく歳月と共に、一緒に流されていってはいけません。新しい日を準備して前進する群れとならなければ、荒野で鷹の餌になってしまうのです。私たちは、歴史的開拓者だという事実を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を切り抜けていき、あすに向かう希望の前に準備の態勢を備えなければなりません。(一九八六・五・六)

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今の時代が、
1620年、信仰の自由を求めた清教徒を含む102人がメイフラワー号に乗って、
神の国建設のためアメリカに渡ったピューリタンと同じような気がしてなりません。
上記み言葉にある「歴史的開拓者」である自覚を持って準備していきたいと思います。

kansyasai
1621年、最初の感謝祭を描いたもの。
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