姜賢賓(カンヒョンシル)先生がサンクチュアリ教会へ

サンクチュアリNewsに以下の投稿がありました。

姜賢実(カン・ヒョンシル)先生がサンクチュアリに!
感動的な証文を上記サイトからご覧ください。

以下、カンヒョンシル先生の略歴です。家庭連合の良識ある方は目覚めていただきたい・・・・
一号伝道師 
姜賢賓(カンヒョンシル)先生


1927.10 慶尚北道栄州にて出生
1951.1  釜山凡川長老教会伝道師
1952.5  統一教会入教
1952.8  高麗神学校中退
1953.7  大邱教会開拓
1956.6  大田教会開拓
1957.1  光州教会開拓
1970.1  釜山鎮教会開拓
1971.6  全国特別巡回師
1974.10 超教派基督協会婦女局長


真理の前に立って

人間はどこの誰も例外なく、善良で価値があり、また誇りある生活を願っている。しかし、心で望むままに生きることができないのが、堕落人間の実情である。私は真実に生きようと、努力をして誠を尽くせば、またどこからか真実なる声が聞こえてくるのではないかと思い、いろいろな所を訪ねて回った。あるときは夜を明かして「愛する主様、私は真実にあなたを愛します。私に現れて神様のみ旨を教えてくださり、神様のみ旨のままに生きることのできるよう主管してください。呼ばれるままに従い、引っ張られるままに柔順に屈服します」と誓ったことがどれほどだったか、どんな困難も乗り越えながら駅で、病院で、街角でのどを詰まらせて泣き叫びながら、伝道生活もしてきた。行き来る人たちの霊を考えるときは、心が急ぎ彼らにみ言葉を伝えないわけにはいかないと、たまらなかった。

その当時私は、二十代の初めであった。聴衆たちを前に、泣き声の混じった清く澄んだ声と、輝く瞳で彼らの心霊を透視しながら、死力を尽くして叫んだ。そのとき私の真実なる言葉に感動して、イエス様を命の救い主として受け入れた人も多かった。

南韓においての統一教会の出発は、私一人が伝道されることによって始まった。統一教会の出発は、荒野と似ていた。草一本もない、荒廃した土地、いばらのやぶと石ころと野獣が群がる土地。荒野には垣根がないので、恐ろしいけれど、その中に神様の声を聞くことができた。荒野には飾りとうそがなかったため、悔い改めよ天国が近づいたという主の声だけが残っていた。荒野は獣が襲いかかってきやすい所なので、あっちこっちへ追い払われ、逃げながら生きていかねばならなかった。しかしその中で、望みと正義と愛と謙遜の導きがあったゆえに、喜びと安らぎがあった。

統一教会の血と涙でつづられた草創期は、苦労とあざ笑いと蔑視で一貫された。釜山のボムネッコルで新しいみ言葉を宣布した後、三十余年の歳月が流れた。今の統一教会は世界的な教会になり、真理は勝利する、すべてのことは真へ帰結するということを実証できた。しかしその過程は言葉でいえないくらい、大変なものだった。

振り返ってみると、まぶたに浮かぶ思い出に、胸が締め付けられる。未熟でいたらない私を呼んでくださり、新しい歴史の役事として働けとむちをあててくださったが、満足させることができなかったことに、神様の前に申し訳ないばかりである。今になり、毎日悔い改めの祈りが私から消えることがない。悔い改めて許しを祈ったら、許してくださる神の愛の感じ、慰めを受けた。人間が動物と違う点は、真実に誇らしく生きるところにあると思う。

私は真実な信仰者になるために、神学を勉強することに決心した。肉身の父は日帝時代、神社参拝を拒否して投獄され、あまりにひどい拷問で重病になり、出獄したが、解放の喜びも知らず他界した。私は父が行かれた道を代わって行かなければならない、また成し得ずに残されたことをしなければならないという気持ちで、高麗神学校に入学した。高麗神学校は日帝時代、神社参拝を拒否して投獄された聖徒たちが、出獄後建てた学校であった。そして聖書のみ言葉のまま生きようと、努力して実践した。

聖日になれば四キロ以上は歩かず、他人が接待してくださる食事も食べなかった。その理由は、安息日を神聖に守りなさいという、聖書のみ言葉のためだった。また一日に聖書を六十ページ以上義務的に読まなければならず、三時間以上祈祷しなければならなかった。また三軒以上訪問して伝道しなければならなかった。私は凡川教会の伝道師の職も受け持っていたために、より熱心だった。

不思議な話をする若い青年

春の気候が眠っていた大地を呼び起こす五月のある日、一人の女子大生が訪ねて来て、「あのボムネッコルの谷に伝道しに行ったら、ある青年が不思議な話をしている」と言った。何が不思議なことなのかと聞いたら「私たち堕落人間たちが、堕落前の世界を捜すことのできる方法を紹介すると言って大変です」と言った。「あなた、何かが間違っているんじゃないか、終末には偽キリストが多く表れるという、絶対に行くな、私が確認した後に行きなさい。その前に行ってはいけない」と私は強くその学生をしかった。

ボムネッコル青年! 私は毎日この問題を前に三時間以上祈祷を捧げた。「神様! 不思議な青年が、ボムネッコルで不思議な話をしていると言うのですが、神様のみ旨であれば行かせてくださり、そうでなければ、行く道を防いでください」と一週間祈祷した。

一九五二年五月十日、雨が降っているので、訪問伝道には行けず、教会で祈祷していた。そうすると、ふと祈祷の途中でボムネッコルの青年に会わなければならないと、そういう決心をして訪ねて行った。理由は伝道に夢中であったときだから…。

しっかりしていて、神様が使えるような存在であれば、伝道して神様の仕事をする働き手にしようという気持ちからであった。その青年の姓も名も知らなかった。顔も家も知らなかった。その女子学生が、男性たちだけで自炊しているようです、という言葉だけを思い出して出かけた。ボムネッコルの坂道を登りながら、男だけが自炊している家はどこだろうかと、訪ねながら行ったが、知っている人はいなかった。しかし神様が教えてくださるだろうという信仰だけをもって続けて訪ねながら回った。

しばらくうろついて、一人の夫人に訪ねると、「あの一番上に登ると井戸が一つあります。その井戸の横に粗末な家が一つあります。そこに青年たちが住んでいます」と教えてくれた。井戸に着くと美しいおばさんがいた。「この近くに青年たちが自炊している家があるということですが、どこでしょうか」と聞くと「あなたは、どこの会社に通っていらっしゃるのですか」と聴いた。「いいえ、私はイエスを信じる者です。と言ったら案内してくれた。

部屋に入って祈祷を捧げ、起き上がり、部屋の中を眺めてみて私は驚いた。その部屋はあまりにもみすぼらしく、それは泥と石を混ぜて、べたべたつけただけの家だった。床は畳二枚にもならない部屋で、壁は紙を一枚もはっていない泥のままだった。天井は雨が漏るのか、あちらこちらがまだらになっており、床は古いカッパの切れ端を敷いていて、ちょうど田舎の馬小屋のようだった。私はその家を見て、人がこの世にこのような家に生まれて死んだなら、どんなに多くの恨みが残るだろうかと考えた。

そのように思っていたとき、労働者タイプの一人の青年が入ってきた。身なりがあまりにもみすぼらしく、色あせたカーキ色の韓服スボンと、赤銅色のよれよれジャンパーを着ていて、靴は米軍たちが履き残した国防色の荒々しい物を履いていた。

そして私を見て「どこから来られましたか」というので、「この下の凡川教会で仕事をしている伝道師です」と答えると、大きな座布団を敷いてくださり、座りなさいと勧めてくださった。そのときになってこの方が、不思議な話をする青年だと分かった。その青年は、「神様は七年前から伝道師をとても愛しておられました」と言った。その話を聞いて、七年前のことを振り返ってみると、その年が福音事業のために私の一生を神様に捧げる決心をした年であった。それで心の中で、この青年は何か少し知っていると思った。

「今日はよくいらっしゃいました。今日は五月十日で意味のある日です。私が北韓から避難して、文を書き始めたのですが、今日はそれが終わる日です。(その日の午前に、原理原本の原稿を書き終えた)今ようやく完成したので、今日は午後から伝道しなければと考えていました」と言われた。

「お父様、聖徒が会いたくて気が狂いそうです。お父様の約束の中には世界の人類が一つの兄弟となり、一つの世界を原理を中心にして成すことができると約束されたのですが、韓国に下りてきてまだ二人の聖徒も得ることができません。神様、聖徒を送ってくださらなければなりません」このように祈祷をして下りてきたのに、あなた自ら来たのかと言いながらその青年はとても喜んだ。その話をされてから、韓国についての話を始めた。

「韓国の土地は、これから全世界の山の頂のような役割をするから世界の人たちは韓国をうらやましがり、韓国人になることができないものかと、悔しく考えるときが来ます」と言われた。そして来られる主様は、エリヤが洗礼ヨハネとして来たように、肉身をもって現れて来ると言われた。

そこで私は、イエス様がどこにも来る所がなくて、韓国に来るのですかと反問した。そのとき話されたことは、一九五〇年にあの北韓の上空に、イエス様の顔が現れたことを無関心に過ごす問題ではないとおっしゃられた。

私一人に話をされるときも、数千名の群衆を前にして話されるように、とても大きな声で話されるので、鼓膜が破れるようだった。「今日私が間違って来たのか、鼓膜が破れる何かのことが起こるのではないか、静かに家に帰られないかも」という思いがした。

そのとき青年の目を見たら、ピカピカ光っているので、「ああおかしい、私の目がおかしいのか、青年の目がおかしいのか、どちらにせよ二つの目のうち一つはおかしい」と感じた。そこに座って、三時間以上お話を聞いたので「今日はこれまでにします」と言って、家に帰ろうとして立つと、夕食を食べて行きなさいとあまりにも勧めるので、断ることができず食事をした。

夕食のテーブルを見ると、あまりにもみすぼらしく、松の木の食卓の上にあるご飯の器は全部へこんだアルミニウムの茶碗だった。そのうえに、ご飯はがさがさした麦ご飯で、麦の黒いしっぽがそのままついていて、おかずはすえた大根キムチに豆腐を焼いただけのものだった。

食卓を横に置いて、私に祈祷をしなさいと言われたが、私は拒絶するしかなかった。なぜならば三時間以上その小さな部屋で、あまりにも自信のある言葉を聞いて、気力がなくなってしまったからである。私は二十六年間信仰生活をしてきたが、そのような信念のあふれたお話を聞いたことがなかった。長い間いつも祈祷引導をしてきたが、その日はとても勇気がでなかった。結局青年が祈祷したのだが、私はその祈祷に大いなる感銘を受けた。私も一日三時間以上祈祷してきたが、私の祈祷とは次元が違っていた。その青年の祈祷は、この世の人の誰にも通じる祈祷だった。神様の悲しくて苦しい事情を告げる祈祷だった。私は祈るたびに病気の人は病気が治り、試練に負けた者は試練に打ち勝てるように力をください、そして疲れ果てた者には、勇気をくださいと、このように祈祷の内容は一辺倒何かをくださいという祈祷だった。ところがその青年は、お父様のために何かをしてあげようという内容だった。お父様のみ旨を私が成し遂げて差し上げます、そしてお父様の恨みを解きます。お父様の国と世界を私が取り戻してあげます。お父様は六〇〇〇年の間安息できなかったのですが、必ず安息させてあげます。このように祈祷しながら、悲しく泣いた。涙には飾りもなく、うそも含まれないものだから、泣き声での祈祷に恩恵を受けた。

私はイエス様を空信仰していた

祈祷を終えて私は考えた。私がイエス様を信じ始めたのは、私が良くなるために、私の欲心を満たすためすなわち後ろを振り返って見るごとに、空信仰してきたなあ、何かが違っているなあ、私は呵責に胸が痛かった。私はイエス様を間違って信じていた。世の中の父母も、その父母のところに来て何かをもらって行く子女より、服一着でも、ご飯一膳でも接待してくれる者が貴重でいとしいものだ。よくよく考えてみると、神様は私より青年を愛されているという考えに至った。そうであれば、私の祈祷より青年の祈祷を聞いてくださると思った。

夕食を終えて、「今日三時間お話されたので、これですべて終わったのでしょうか」と聞いたら、「いいえ、私がお話しすれば何日も、夜通しで話すことができるし、そのときごとに新しいお話をすることができる」と言われた。私は心の中で、この青年はとても大きな話の包みをもっているなあ、聖書に対して新しいみ言葉をどれだけでも話せるというのはすごいことだと思った。

「ええ! そんなにする話が多いのですか? そうしたら私はまた来ます!」と答えた。「この家は見た目にはみすぼらしいですが、いつでも門を開けて生命のみ言葉を探して来る者を待っています。人生の根本問題と宇宙の根本問題を一つ一つ教えていますから、必ず来なければなりません」と念を押された。

私はその土窟のような粗末な小屋の家を出て、帰ったときは、私が私でないような感じだった。神学校で習ったすべての神学の内容が、一時に崩れたように思った。どうしてだろうか? その青年の話を聞いた後から、私の人生が無にかえっていくようで、祈祷をささげても答えてくださるようではなかった。世の中には本当に不思議なこともある。その次の週の月曜日から訪ねて行く気持ちだったが、三時間聞いたみ言葉をよくよく考えてみると、あまりにも確実な内容なので、木曜日に再び訪ねて行った。

訪ねて行った私をその青年が眺め見て、とても喜んだ。部屋にどうぞ入りなさいと言うので、私は心で疑心を持った。あの方はどうして私の訪問をこのように喜ぶのか? 若い男性で私が若い女性なので喜ぶのかと思うと、気分が良くなかった。座ってお話を聞いた。内容は、神様はどうしていらっしゃるかということなのだか、そのお話を聞くと、神様に対してもっと正確に知ることができた。

初めうれしそうに入ってきなさいと言ったときは、私が女性だから喜ぶのかと考えたが、後で分かってみると、私の生命の援助をしてあげようという意図で、私を喜んで迎えてくださったのだと分かって、頭が下がった。二日目もやはり三時間のお話を聞いた。お話の内容は創造原理に対してのもので、あまりにも自信のあるお話をされるので、そこで多くの感銘を受けた。

三度目に訪ねて行った日は、五月十六日金曜日だった。夕食を早く食べて訪ねて行ったら、その日はもっとうれしそうに迎えてくださった。二日間聞いた土台があったので、三日目はもっと完全に酔ってきた。あーこれならばいい。今この時間も世の中の人は争い、殺し、暗い中で騒いでいるのに、私は新しいみ言葉を手にいれ、体がどこにあるのか、時間が経つのも分からなかった。

「あのー、ひとつお願いがあります」「何でしょうか」「先生として侍りたいのですが、先生と呼んでもいいでしょうか」、ぼろぼろの着物を着た青年を、私は先生と呼ぶことにした。その方こそ文鮮明先生であった。私の横で熱心に肖像画を描いていた青年と、おばさんがうれしい表情になった。この青年は金元弼先生で、おばさんは玉世賢お母さんだった。お話がほとんど終わるころ時計を見ると、早朝四時を少し回ったところだった。

祈祷してごらんなさい

四時半には早朝祈祷を導かなければならないのに、四時十五分ごろになってお話が終わったので、準備が全くできなかった。教会に下りてきて祈祷会を引導しようとすると、準備なく前に出たので、心が重かった。ところが祈祷する途中で、信徒たちが悔い改めて頭をむしり取ったり、胸を叩いたり、礼拝堂の床を叩いて慟哭する人もいた。私には不思議に思われた。ふだん祈祷するとき、準備をたくさんしてもこのようなことはないのに。ふと、ちょうど三日間聞いたみ言葉を伝えたためであると悟った。その日が土曜日だったので、訪問するのだが、先生のことが頭から離れなかった。すぐに行って会いたいと思うばかりだった。それでI緒に訪問している執事と話をした。「執事様、ボムネッコルにある一人の青年がいて、イエス様はよく信じていますが、教会に出てこない人がいます」、「それでは行って来なさい」このようにして、その執事は長老の家で待つことにして訪ねて行った。

そのとき青年は外におられたが、私に喜んで会ってくださった。「今訪問する途中で来たので、すぐ行かねばなりません」「二十分だけ話を聞いて行けばいいんです」と言いながら話をされた。「今までみ言葉をたくさん聞いたが、このみ言葉は神様から来たものか、人間の頭から作られたものか、その出所を知りたくありませんか?」「ええ、知りたいのです、どうすれば知ることができますか?」「それではお祈りしてみなさい。神様は必ず教えてくださいます」そのとき私はうれしかった。もしそのときまでしてくださったお話が神様から来たみ言葉で、このみ言葉を信じなければ滅び地獄に行きますと言われれば、私はそのまま降りて行くのですが、祈祷してみなさいと話されるのが、どうしてなのかうれしかった。「祈祷してみます」「子女がもちをくれと言うのを、石をやる父母がどこにいるか、魚をくれというのに蛇をやる父母がどこにいるでしょうか? 神様は熱心に懇切に祈祷すれば必ず答えてくださるものです」そのみ言葉には力があった。

三日間おしになった

次の日が聖日であった。そこで月曜日早朝から、このみ言葉に対して出所を知るために祈祷を始めた。うつぶして祈祷する途中に、神学校で習った理論が頭をさーっとよぎった。ところで立派な理論はたくさんあるが、その理論を実践する人が少ないことが切なかった。世の中にあるたくさんの理論を、実践に移せないのでそのままだろうが、文先生が話されるのも理論の一つで終わるだろう。本当に話されるままに実践できそうではなかった。このような考えと共に頭が痛くなり、胸が苦しくなってきた。神様、天のお父様と呼んでも、舌が回らなく口が開かないので、祈祷の門が閉じておしになってしまった。私は心の中で祈祷した。「主様、私が何の罪を犯したので、お父様と私の間にこのような壁ができたのでしょうか? この障壁のために胸がきつく息が詰まるようで、神様、障壁を崩してください」と祈祷をささげた。

私は悟った。体が炎で燃え広がっている所が地獄でなく、私が神様から離れているとき、すなわち神様が私の中にいらっしゃらないことが地獄だと悟ったのである。私が神様の愛の主管圏におれなくてえ、非原理圏にいるのが地獄なのだ。そのとき私は地獄が何なのか感じた。言葉もしゃべれないし、息も充分に吸えないし、胸の中が焼けるようだった。「お父様、私からすべてを奪ってもいいです。しかし、お父様と通じることのできる祈祷の道だけは取り上げないでください。神様と私の間に心情的で、内的な道だけは断たないでください」言葉の門が閉ざされてみると、あまりにも苦痛だった。

話せない、おしになって三日が過ぎた。この三日間はどんなにか長く苦痛な時間か、約三年の歳月が経ったような気分だった。四日目もやはり教会に行った。教会で祈祷をささげるのだが、「お前、人の言葉も信じられず受けられない者が、神様のみ言葉をどれくらい信じて、どれくらい受け入れられるか」という心の声がした。

神を愛していると言いながら兄弟を憎む者は、偽り者である。現に見ている兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することはできない、というヨハネI四・二〇のみ言葉が思い出され悔い改めの祈祷を始めた。「私は人の言葉を信じられず、受け入れない者になりました。私の不信の罪を許してください」このように悔い改めの祈祷をしたら、頭が痛いのも、胸が苦しかったのもなくなって、心も体もすがすがしくなった。それで「お父様:」と呼んでみたら、おしになっていた口が開いて、「お父様」、「神様」、「主様」と呼べるようになっていた。

それで喜びの心で朝食をする前に、先生の所に走って行った。三日間行けなくて行ったので、「どうして三日間も出てこなかったの」と言われた。「私は三日間地獄に行ってきました。先生にお会いする前はそんなことはなかったのですが、お会いしたときに頭が痛く、胸が苦しく、祈祷の門が閉ざされ三日間おしになりました。その間たくさんの時間を奪われて、心霊的にはたくさん傷つきましたので、損をしたものを賠償してください」と言ったら先生がみ言葉を語った。「祈祷しようとしたら、疑っていなかったですか」「我知らず疑いの心が出てきました」「おしになったのは疑ったからでしょう」先生は私に話をしようとされたのが、損害賠償を請求するという私の立場なので通じなかった。私がそのようにしたので、先生は外に出られた。

玉世賢お母さんの証詞に感動

そのとき玉世賢お母さんが私に話しかけてきた。「あの方は立派な方です。神様が愛されている方です」 「私に良いお話をしてくださると思ったのに、なぜ先生の自慢ばかりしますか?おばさんはいつ、またどのようにお会いになったのですか?」「私は啓示を受けて来ました」「啓示が何ですか」「神様の声を聞いたのです」「本当に聞いたのですか? 私は二十六年間もイエス様を信じていたですが、神様の声を一度も聞けませんでした。私もどうしても聞きたいのですが、どのようにすれば聞けますかり」玉世賢お母さんは伝道されたときを回想しながら話をしてくださった。

篤実な長老教会の長老夫人として、恩恵をたくさん受けたこられた方だった。「ある日家で祈祷をささげていると、天から声が聞こえてきました。萬寿台の向かい側に若い師匠様がいらっしゃるので、訪ねて行って会ってみなさいというので訪ねて行ったら、すぐ先生がいらっしゃって会って伝道されたのです。そして平壌で小さな小屋を一つ得て礼拝をしていたとき、平壌市内の信仰深い原師、執事、平信徒たちがたくさん集まってきました。神様から声と啓示を受けた者たちでしょう。そうしたら平壌市内の牧師たちが、長老たちと会議を開いて、このままおけば駄目だと決議したのです。社会秩序を蹂躙して、教会員たちを奪っていったと警察に投書をしたので、結局先生は平壌の獄中に収監されたのです。そのとき私は、はったい粉と服を作ってたびたび面会に行きました」このようにお話されながら、涙をふかれた。損害賠償を請求しようとする私の心の隅に、おばさんの涙が落ちるようで、私が悪かったのだという思いになった。

「夫が長老教会の長老なので、面会に行くのが難しかった。一ヵ月一回平壌から興南へ通わなければならないから、並大抵のことではありませんでした。あるときは汽車の中で祈祷をしました。(神様私は文先生に面会に行くのを次からはやめます)としたら、白い服を着た老人が出てきました。お前どうして行かないことのするのか、今は陰に埋もれて臭い獄中にいるけれども、その先生に無数な人が集まるときが来る。だから、大変だけれど、続けなさいということでした。その後続けて面会に通いました」その話を聞いて私は感動した。

玉世賢お母さんにどのようにすれば神の声を聞くことができるのかと尋ねた。「私心を捨てて真心から祈祷すればよいのです」と言われた。しかし声は聞こえなかった。ある日教会に行って真心から祈祷をささげると声が聞こえた。その声はピリピ三・二〇のみ言葉だった。

「私たちの国籍は天にある。そこから救主、主イエス・キリストの来られるのを、私たちは望んでいる」という声が三回も聞こえた。それで起きて周囲と天井を見回したが、空の教会堂には私一人だけだった。間違いなく神様の声を聞いたのだ。それでまた先生を訪れた。

「先生祈祷中に声が聞こえてきました」「何の声で…」と言われたので、聞いた内容をお話したら、「伝道師様、そんなにしたら気違いになるかもよ」と笑われた。

「私がイエス様をよく、また正しく信じようとすることだけなのに、気が狂えばどうなりますか?」と言うと「気違いになっても神様のため、善のために気違いになったら良いことだから安心しなさい」と言ってくださった。

疑心の反復か私の心を貫く

声を聞いた後が問題だった。この道を行かねばならないか、行くべきではないか。そのときの環境を見ると、とても信じることができなかった。部屋は畳二枚ににもならないし、雨漏りがする洞穴のような所で礼拝をするし、礼拝を受ける者も二、三人だけなので信じ難かった。話されるみ言葉は、とても大きく高くて、聞くときはもっともだと認めるのだが、少し経てば信じられなくなり、疑いがわき起こった。「私がなぜ偏屈にイエス様を信じようとするのか。長老教会に通っても、いくらでも救いを受けられるのに」と、このように個人的な考えが先に立って、悩み始めた。そして、他の教会では礼拝を終えた後に信徒たちが人山人海(注八非常に多くの人の例え)のようにあふれ出てくるのに、ここは二、三人だけなのでとても自信をもち続けることができなかった。

そしてある日先生の所に上、っていったが、松の木の角で「今日からはこの道を通いません。別れのあいさつをして来なければ」と心に決めた。いつでもこのような考えで、先生の所に行けば、五時間以上講義を聞いてくるのであった。帰るときは自分自身をしかった。確かにここには引力があった。それてその日は心に固く決めて、上っていって先生のいらっしゃる部屋をたたいた。他のときであれば、人の気配がすれば喜んで迎えてくださった先生が、その日はむっとした表情をして座っていらっしゃった。

「そこにちょっと座りなさい。今日は上って来ながら何を考えましたか」「私は別に覚えておりません」「それでは私が教えてあげます。すく角の松の木がある所で、二度と来ないという決心をして、別れのあいさつをして来なければという考えではありませんでしたか」私は私の秘密を知って指摘される先生に、頭を下げるしかなかった。二つの目は驚いて目を見張るだけたった。一人だけで考えたことを当てるので、人間ではなく、神と同じだと思った。そしてお話をしてくださった。

「ふろしき包みを持って行くことはできます。しかしいくらも行かずに再び戻って来るものを、なぜ不要な苦労をしようとするのですか」私はまたその場でたくさんのみ言葉を聞いた。お話を聞くと、今まで疑ったことがすべて納得できた。ところが、帰るや否や疑心が生まれた。

ある日私が習った神学校の理論と、先生が今まで話してくださった原理と対比して討論するために訪ねていった。「先生、イエス様を信じるのに何の数字が必要ですか。四十日、四〇〇年、四〇〇〇年。このように四数をもって聖書を解釈されるのですが、私は神様の摂理がそのようになっているとは信じません」と言ったら、突然頭が痛み胸が苦しくなった。そして口からは血まであふれてきた。私が考えてみても不思議なことだった。そのとき先生があごに手を当てると、うそのように血が止まり頭がさわやかになった。このように痛いところを治してくださるので、この道をまた行かねばならないと考えた。そして治ってから、また何時間かお話を聞いた。

またある日先生を訪ねて行った。その日は特に先生の服装と家があまりにもみすぼらしく思えた。お話を聞くことに、とてつもない話をされるのだが、みすぼらしい様子を見ると、また理論であって実際は難しいという思いがしてくるのであった。私の顔を眺めていらっしゃる先生は、「聖書をどこでも開いてみなさい」と話された。開くと「三一節を読んでみなさい」と言われた。そこはマタイ福音書一四章三一節で、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と書いてあった。そのとき先生は聖書をもって、「これは私の話ではなく神の話で、少ししか信じられない者よなぜ疑ったのか」と言ってしかられた。

「これからこの原理で、キリスト教が統一される日が来るのです」と言われた。「キリスト教が統一されたら、巨頭な人物たちが集まって会議をし、その方法を模索しなければならないのに、このボムネッコルでわずか三人で統一させることができますか」という私の言葉を間いて、笑いながら「今は大変そうに見えるけれども、いくらもたたずにそのようになるのです。このように宗教も統一され、世界も統一され、天宙も統一されるのです」と言われた。ある日私は光復洞の国際市場の前を歩いていたとき、争う男と女を見た。二人はあらゆる悪口を言って血まみれになってもまだ争っていた。私は心の中が穏やかでなかった。「あのように、けんかをしている人たちはたくさんいるのに、いつ地上天国はできるのか。天国ができるとは、とても信じることができない」と思ったら足が地面から離れなかった。足がしびれるように痛くなってくると、一歩も動かすことができなかった。神様はどうして私の思いのままに考えさせず、気のままに歩くこともさせないのですか。私は道に立って声を聞いた。「お前に何度も現れて教えたにもかかわらず、君はそれでも不信し疑うのか、君はすることが多い人間だ、あの叫んでいる人間の声が聞こえないのか。あなたは彼らの生命を父の愛の中に導くべき伝道師というわけだ」はっきりと神様は私に聞かせてくれた。そしてその場で神様のみ旨の通り、み言葉の通り行いますと誓い悔い改めると、痛い足が地面から離れて歩けるようになった。このような話を誰かに言ったらうそだと言ったが、私にはそれが真実だった。

父よこの道を死ぬまで行きます

疑問と啓示が繰り返したある日、私は談判祈祷をした。内容は私が行く道で、神様が願っている道はどんなものなのかということだった。祈祷していたある日、祈祷の答えをくださった。「私が六〇〇〇年間摂理し役事してきたのがこの道だ」と。

神様は私が仕事をし、私が考えるにも私の気のままにさせなかった。ただ神様と因縁を結んで、そのたびごとに懲戒し導いてくださった。そして最後に談判祈祷したときにも、神様は答えてくださった。その答えの恵みを最後に、私は私の行く道を確実に定めた。そしてすべての生活の中心を先生に向けた。そしてこのような道を死ぬまで行くことに決心した。

ある日、先生が私に「明日は誰かに会うだろうが、その人を伝道してみなさい」とおっしゃった。次の日、早朝祈祷を終えて勧士の一人に我が家に行こうと勧めて、家で話を交わした。「勧士様、イエス様を信じる目的は何ですか。主様に会い救いを得るのではないですか。その主様はいつこの地上来られるのか、一度祈祷してみましょう」と。

その後、毎日早朝冷水欲をし、勧士様と祈祷した。そして何日間か経ってその人は幻を見た。「最初は火がついた電球が三つ見えて、その次には無窮花が三つ見えて、イエス様の顔がその上に現れた」と言った。幻で見せてくださったものは何かとまた祈祷すると、「電気は明るい光を指し、無窮花は韓国を意味し、イエス様の顔は主様を意味すると教えてくれた」と言った。私はその言葉を聞いて、一度祈祷して解決されたとは言えないから、もう一度祈祷してみなさい」と言った。やはり同じ問題で祈祷を捧げたが、今度は変な山が一つ見えて、その次に背がスラリとした青年が一人見えたと言った。

その後、私はその勧士様を連れて、先生のいらっしゃる家に行ってみることにした。行く途中勧士様が私に言った。「伝道師さんおかしいです」「今朝祈祷のときに見たものです」先生がいらっしゃる家の門の前に着いた。「本当に不思議ですね。この家は私が祈祷するときに見たものと同じです」こんな話をしているときに、先生が戸を開けて出てこられた。先生を見ると幻で見た人とまったく同じだと言いながら、とても喜んで、謙遜にあいさつをした。「勧士様に幻を見せたのは、姜伝道師があまりにも信じることができなく、勧士様の証拠を通して、信じさせようとしたものです」と先生がおっしゃった。

人が反対する道をなぜ行かなければならないのか?

ある日、神学校の創始者である韓牧師が、西面で復興会をすると先生にお話した。「では姜伝道師が行って会ってみたら」とおっしゃった。その方は神学博士で神社参拝を拒否したという理由で、七年間も獄中生活をした人だった。霊界から協助だけされれば問題がないと思い、訪ねて行った。復興会が終わって牧師に話し始めた。

「牧師さん、この頃私は立派な話をする先生にお会いしました。聖書六六巻の疑問点を確実に解放される方です。不思議なことに疑ったならば、頭が痛く胸が苦しくおしになり、足が地面にくっついてしまうことがありました。牧師様も行かれて調べてみればよいです」と信仰体験を話した。私の話を聞いた牧師は顔の色がすぐ変わった。「長老教会のイエス様を信じても救いを受けられるのに、なぜ他の所に行きますか」すぐ行くのをやめなさいと言われるのだった。

これ以上結論を出せなくなって帰ってきた。帰って先生に報告をした。「霊界から協助をしてくれるものと思っていたのですが、通じませんでした」と。私の報告を聞いた先生は、賛美歌を歌おうと言われた。

「泰山を越え険しい谷に行っても、光の中へ歩いて行けば主様が捨てないと約束した言葉は変わらないね」

三人が全員で歌い、涙の海となった。そして祈祷をした。「お父様、どうして人が違うという道を行かねばなりませんか。お父様が約束されたみ旨を成し遂げるためです。どんなに大変で難しいことであっても必ず成し遂げてみせます」他は反対しますが、神様のみ旨であるので、この道を行かなければならないと何回も誓った。

大邱四十日伝道に出る

私は先生のみ旨に従って、一九五三年七月二十日大邱に伝道に出かけた。それは南韓で第一に、教勢の大きい所が、大邱であったからだ。韓国で公式的な夏期啓蒙伝道実施は一九五七年七月二十日であったが、私はその四年前七月二十日に出発した。出かける前にある食口が服を二着買ってくれた。それを先生が見て一着を後ろに隠された。私には「男性が女性の服を持って何をされるのか」と秘かに不満が生まれた。旅費をくださったが、汽車代と米一升分の金額だけだった。四十日間伝道に出るのに、四十日食べる米一升分の金額だけたった。四十日間伝道に出るのに四十日食べる米代ではなく、一升の米代しかくださらなかったので恨めしかった。後で分かったのが、それには大きな意味があった。二〇〇〇年前イエス様が伝道に出かけるとき、弟子に服を二着持って行くな、お金を入れる袋を持つなと言われたので、先生もそのような道を行きなさいということであったのだ。

「私は本当は困難と苦痛の道に送りたくない。もしかして狼の群れに送り、けがをしたり、傷ついたりして恐いけれど、送らなければならない心情を理解してほしい」との内容を聞いて出発することになった。孤独なときはお父様と呼べば神様が訪ねて来られて、慰労して導いてくださり、生きておられるお父様は私の味方であると重ねて強調された。そしてまたその背後から先生以上に気遣ってくださり、また私たちを味方になって協助をしてくださる神様がいらっしゃることを一時も忘れないでほしいと願われた。

私は聖書と服を入れた白い人造絹のふろしきを持って、下りながら後ろを振り返った。私を物静かに眺めておられる様子は「大邱に必ず教会を一つ建てて戻って来なさい」という表情だった。顔の表情がそうであるから、心はなお慟哭されているようだった。そのとき私は考えた。人がいなくて、何もない私にこのような大きな期待と願望をかけなければならない先生は、哀れでかわいそうな立場だと、私も心の中で泣きながら「必ず勝利します」と手を振りながら、別れのあいさつをした。

私は大邱駅で降りたが、行く所がなかった。教会も多く人が多いが、神様の本当の心情を知る人がいないと考えたとき、あまりにも孤独だった。一人で市内から歩きながら祈祷をすると、天より声が聞こえてきた。「賢實! 賢實! 賢實! 私は六〇〇〇年間地上の人類を救うため苦労したが、お前は一年歩いたたけでも苦労だというのか! 私がお前に勇気をやるから、強く雄々しくなって力を出せ!」そのとき私は「神様、私の力では一歩も動くことができません。同行してください」と祈った。私は今も難しいことに出会えば、「神様、大邱の路上で聞かせてくださった声を今も聞かせてください」と祈祷をささげる。

日が暮れて夜になったが、寝る所がなかった。寝るよりもまず祈祷する所が必要だった。そこで、大邱で一番大きいソムン教会に訪ねて行った。徹夜祈祷をするためだった。大邱にお父様のみ旨と、心情を知る者が一人だと考えるときは、お父様に頼るより他はなかった。

先生は伝道に狂われた人

次の日の朝一人の執事を送ってくださって、一緒に大明洞の裏にある大徳山(そのときはアンジランイ山と言った)に登った。数ある峰の内でも一番高い峰に登って祈祷をささげ、歌を歌った。

「来たれ友よ園の春は季節に花咲、嬉し春を楽しむエデンの友よ、すべて来たり踊ろう春を歌おう」三節まで歌ってまた歌った。

このように一人で酔って歌を歌うのだが、下の方で大勢の夫人たちの「ここに人がいるよ」という声が聞こえた。そこでこれは何の声だろうと思っていると、「私たちは長老教会の執事で十日間山祈祷をするために来ました」と言った。その人たちは下の祈祷所で私の歌声を聞いて、あそこに人がいるようだ、あるいは天使の歌声かと言いながら、互いにかけまでして捜し登って来たのだと言った。そう言い、とても喜びながら、あなたは何かとてもよく知っている人のようだ。するべきことをしたら、み言葉を語って、集会を引導してほしいと一生懸命頼まれました。

私にはそのような実力はないと遠慮した。しかし頑として要請するので、それでは一緒に恩恵を受けましょうと言いながら承諾し、その日の夕方初めての礼拝をしたのだが、説明することのできないくらい大きな恩恵が与えられた。十名の執事たちの中には幻想を見た者もおり、また異言を語る者もいた。ある人は白いズボンにからむしの開襟シャツを着て、体つきのガッシリした青年が、岩の上に立って祈祷しているのを見た人もいた。正にその方は文鮮明先生だった。

霊的に先生がその山に来られて、祈祷してくださったのだ。原理のみ言葉には確かに引力があった。夜、岩の上に横になって寝てみれば、昼の強い太陽の熱気で背中が温かくなってきた。そして急に眠くなり、また手足までも温もりを感じるようになった。そして目が覚めてみれば、彼女らは恩恵を受けて、みな私の腕と脚を静かにつかんでいた。そこでなぜ寝ないで座っているのかと聞いた。彼らはこのようにつかんで座っていることが、寝るより祈祷しているより恩恵を受けられるようだと言った。また静かな所で祈祷しようとすれば、ぞろぞろとついて来るし、手を洗おうと泉のある所にでも行こうとすれば、一緒に行こうとついて来た。

十日間留まっている間、十名の執事たちは多くの恩恵を受けた。それで彼らは今主様が来られたならば、いくらでもお会いできるし、また死ぬとしても天国は問題なく行くことができると自信ありげに言った。

彼らは山で相談した。この山を下りてすぐ部屋を借りて教会を造ろうと言う意見になり、南山洞に一つに部屋を借りて礼拝を始めた。ところで礼拝を四回ないし五回すると、近所のうわさをしたとか、すく横に教会があるのに教会に行って礼拝を受けないで、家で礼拝をしているということでうわさが立ち、引っ越しをしなければならなくなった。他の村に行ってもやはり同じだった。一日に引っ越しを二回する日もあった。

それだけでなく、既成キリスト教会の反対で私たちが捜査線上にのったこともあった。社会秩序を乱し、自分たちの教会員を奪っていくので許すことができないと警察に告発した。それで変装して通ったが、また変な人が後ろについて来ると、罪がないのに世の中で一番多き罪人のように隠れて通わなければならなかった。

そのときこのように追われていますが、お父様のみ旨を成し遂げた後には世界のすべての人たちが、ありがたいと感謝するのだ。その日まで私はどんなに大変で難しくても止めないで、最後まで戦って勝利しますと誓った。教会では、釜山から女の異端が入ってきて、勧士、執事たちがたくさんだまされてそこに行けば、失敗し、死んで地獄に行くから言ってはいけないと言った。しかし純粋な教会員たちは「神様から啓示を受けました。ここは真理の道です。原理の道だという声を聞きました」と言いながらたくさんの人たちが訪ねてきた。

引っ越しをあまりに何回もしたので、後で嫌になってしまい、食口たちに分からないように一人で引っ越しをした。しかし三日も経たないうちに食口が捜して来た。どうして分かったのか聞くと、「神様に祈祷したら、神様が教えてくださった」ということだった。

先生がそのときいらっしゃる所がなく、こっちに追われたりあっちに追われたりしながら大邱に来られたが、そのときも一ヵ月に三回も引っ越しをした。ある日、先生が私に宣戦布告をしなさいと言われた。宣戦布告がなんなのか聞くと、今日にいる牧師、長老、教授で神霊的によく感じる彼らにこのみ旨を伝えなさいというみ言葉であった。

そのときは地方のどこにいっても私たちの食口は一人もおらず、もちろん教会も一つもなかった。食事はもらって食べ、寝る所は借りて寝るという状況だった。ふろしきに包んでいた服は家に来るときはすべてなくなり、たった一着だけ着て帰ってきた。世話になった人たちに、一着ずつあげてきたからであった。

一度出かければ四十日、五十日、六十日、八十日づつみ言葉を伝えて帰った。先生は昔も今も伝道に狂われたような人である。八十日間、もらって食べ、借りて寝ながら、帰ってきて報告をすれば、その報告をすべて聞かれて、「では今度いつ出かけるか」と言われる言葉を聞くとき、胸がドキンとするときがあった。一晩でも伝道ということを考えないで過ごせたらどんなに良いだろうかと考えるときもあった。

行く所ごとに証詞が

一九五四年四月忠南、大田に立ち寄ったときであった。ここには数十年間霊界に通じているペクシンミョンさんというおばあさんがいらっしゃった。あまりにも名が知られているので訪ねて行った。彼女は私を見てすぐ、「あなたは天使長的ラッパの使命をしています」と言われた。天使長が空中からラッパを吹いて下りてくるものとしか思ってなかった。そこで後で先生にお話しすると、新しい便りを証詞する者は、天使長がラッパを吹くのと同じような使命だと言われた。

それから先生と、いろいろな食口たちが写っている写真があったが、先生を指差しながら「ここに宗教を統一される方がいらっしゃる」と言いながら喜んだ。そして私にあなたが行く道は、無限に狭く険しい道であるので、誰も行くのを嫌がるのである。遠からずして世界の人たちがすべて行かねばならない道だから、難しくても必ずこの道を行きなさいと激励してくれた。しかし私はそのとき、その方のお話を信じられなかった。韓国人一人でも伝道するのがこれほど難しく大変なのに、世界の人たちが訪ねてくるとはどうにも理解することができなかった。

今はその方がお話しされたように、一三〇余カ国に宣教師たちが出かけて宣教活動を展開している。三十年前の預言が現実になった。世界広範囲に宣教活動をしている統一食□たちは、韓国を真理の母国とし、無限にあこがれ懐かしがり、また思慕している。生きている間に信仰の宗主国である韓国の地に、足を踏み入れることを願っている人たちが世界に広がっていることを考えるとき、熱い涙があふれて神様に感謝している。一人の方から始まったのであるが、今はどこに行っても統一教会がない所がない。私はそのとき三十歳にもならない若い年で、南韓一帯を何回も巡回した。全羅北道裡里であったことは忘れることができない。

裡里駅で降りたが行く所がなかった。神様導いてください、と祈祷しながら歩いていると、白いチマ・チョゴリを着たおばあさんが私を見て、「先生今来られたのですか」と言ったが、私はどう見ても知らない人なので、いつどこで私に会ったことがあるのか尋ねた。その人の答えはこうであった。「私も知らないけれど、今朝早く祈祷をささげると、先生の顔が幻想で現れました。今日こういう方が来るから待っていて、お迎えしなさいという言葉があったので、今待っていると先生が来られました」と言って、とても喜んだ。その人は化粧品の販売をしている人だが、時間がないと言って今日は商売にも出ないで待っていたと言った。その人は真のみ言葉を捜し、全羅道一帯をさまよったということだった。私はその人に祈祷の題目を上げた。「堕落はどうして起こったのか」と言ったら「不倫な愛の問題で堕落したと答えを受けた」と言った。復活は共同墓地の中から死体がよみがえるのではなく、我々の心霊が最高の境地に至るのだと言った。その人は原理を知らなかったが、祈祷で答えを出し、原理を証してくれた。その婦人の名は李スンヒーさんであった。

また忘れることのできないことは、忠清南道、公州で起きたことである。公州に到着したときは一文無しだった。歩いて行き、そしてあるおばあさんに私は声をかけた。この辺に部屋を一つ借りたいと言った。どうしてかと聞かれて、ここで一週間だけ伝道するのが私の願いです。そうすることによって公州に地に残されているすべての恨みが解けるようだと言ったら、自分の家に私を案内してくれた。その人は何の啓示を受けたか知らないが、至れり尽くせりで私を接待してくれた。一週間の原理講義もし、多くの心霊的な人たちにも会った。

その婦人は監理数のチョー勧士だった。一週間後にあいさつをして出るとき、その人は私に

「ちょっと待ってください」と言って奥に行き、新しいお金を一束持ってきた。そしてその人が言うには、「ニカ月間十分の一献金を集めてタンスの下に置いておいたが、どうしてか私にも分からないのですが、この十分の一献金を先生にあげたい」と言うのだった。

私は「監理数のために準備されたものを、受ける資格がない」と言ったが、「これは私があなたに上げるのでなく、神様が上げるのだから受け取りなさい」と何回も勧めるので受けた。

天安に来て一週間の間、部屋を借り伝道を終え、そのお金でソウルまで来て、先生にケーキ一箱を買って差し上げてもお金が残った。その額がいくらだったか覚えていないが、とても多くのお金だったと思われる。

そのとき私は神様がきっと私の父、すなわち姜賢實だけの父だと思った。私の背後には生きているお父様が同行され、同志、同益して疲れはてるときは勇気をくださり、悲しいときは慰め、お金がないときには誰かを通してでもためてくださる。天地万物を創造したその神様は、私の父であることを最も実感した。

一九五五年から一九六六年までパゴダ公園で伝道するとき、のどがかれて言葉をしゃべれなかった。先生に三日間だけ休ませてくださいと頼んだら、「のどがかれてしゃべれなかったら、公園の真ん中に立って手振り、足振り、身振りで立っていなさい」と言って督励してくださるのだった。伝道者の心霊が懇切なものであれば、手振り、足振り、身振りでするのを見てでも、食口になる人がいるだろうとおっしゃった。そのときの言葉がいつも私の耳元に残っている。

私は私が行っている険しい道を飛び出し、広い道を行こうと暴れた。神様はそのたびに、私は懲戒し神の狭い道を行くよう導いてくださった。それゆえに神様に対し恐縮で面目がない。神様のみ言葉の通り行動できず、いつも心配させる立場だったので、世界的に基盤を固めるこのとき、使命をすべて果たせないためとても胸が切ない。私一人を伝道するため、すべての苦難の道を嫌がらず歩いてこられて天の前に、あまりにも未熟な私を自らしかっている。

先生に最初お会いしてから、早三十年が過ぎた。満三十周年の長い歳月が過ぎたのだ。

一九五三年七月二十日大邱教会を開拓しながら、数え切れない引っ越しをした記憶は今も忘れられない。たき木と炭を頭に載せて運んだ二十六歳半ばの若いときだったので、その難しさも克服できたのではないだろうかと思う。

一九五六年六月十日大田教会を開拓した。伝道があまりにもできず、毎日大田市を七回りしながら祈祷した。ここで、神様が堕落した人類を救うためのもどかしさを実感した。

一九五七年七月二十日、光州教会を開拓するときには、数多い大学生たちが入京した。しかし一遍に全部み旨を捨てて出ていく姿を見たときには、限りなく慟哭した。神様が今も堕落した人間から裏切られていらっしゃることを体恤し、心が痛かったことを今も記憶している。

一九六九年釜山慎教会を開拓した。食口たちと苦楽を共にし、どういうふうにしたらみ旨にプラスになるか、神様が必要とする我々になれるかを祈祷し、精誠を尽くしたころが懐かしい。

一九七一年六月十五日、全国特別巡回師として南韓一帯を数回巡回した。行く所ごとにお父様を証し、同じ心情とみ旨で団結し、互いに愛し神の国と世界を成し遂げようと涙した。

一九七四年十月七日より今日まで、超教派キリスト教会でキリスト教連合運動を行っている。

今では六十歳近くなっているので、本当に残り少ない肉身生活であることを実感するようになった。お父様から受けたこの生命をお父様の前に輝かせ、栄光な存在でお返ししようという気持ちだけである。

私の肉身を神様の前に祭物となってささげ、全体が天のみ旨を早く成し遂げることができれば、いつでも死ぬ覚悟ができている。人の命は有限であるが、神のみ旨は永遠なので、すべての個人の生活は神の前に忠実な結果として表れるべきである。

ただ神の栄光だけが永遠でありますよう。*

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ニューファンドランドが心のふるさとに

ニューファンドランドで4日間を過ごし、日本に戻ってきました。
時にマイナス20度にもなる厳寒のNewfoundlandでしたが、そこにはお父様が亨進様をとおしていらっしゃいました。

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今回 亨進様が何度も語られたことが お父様の権威に戻る祝福を受けた「3000名」のメンバーに対する大いなる期待です。

ノアの箱舟の時は、ノアの1家庭のみが救われた。
しかし今回は、困難な中「3000家庭」の者たちが立ち上がったと!!
そのように語られました。

最も困難なときに、お父様を慕い、お父様のもとに帰ってきた「3000家庭」
この「3000家庭」のメンバーから、天一国は出発します。
辛くとも苦しくとも、亨進様・国進様と共に、お父様の王国を築いていきましょう。

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4時間にわたる亨進様・国進様との懇談会。亨進様のお姿はまさにお父様のお姿でした。
洋介さんのBlogにビデオがあります。
この内容はメンバー必見です
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希望がある所には発展がある

食口の皆様お元気様です。
地元のサンクチュアリ家庭と近所のジョナサンで、ミーティングをしてきました。
心通じるサンクチュアリメンバーとの会話は楽しく、話も弾みます♪

愛のある所には人が集まり・・・甘い蜜のある花には蝶が舞います。
困っている人がいれば助けあい。喜びは分かち合い。笑いにあふれた教会。
そんな教会を作りたいね!!と、話がはずみました。

私達サンクチュアリ教会は、自由と責任の教会です。

家に戻り、霊の親から入教した時にいただいた「御旨の道・第二集」を開きました。
そのみ言葉

希望がある所には発展があり、希望がなくなる時は停止でなければ後退の一路にある。
それ故不幸と幸福は希望に左右される。
明日の希望に向かって進む信仰者に希望がないとすれば、彼は極めて不幸である。
それは皮だけの信仰である。 P191 信仰生活より

今、希望を持って歩んでいますか?

「真のお父様の権威に戻る祝福」の期限は天基7年天暦1月6日(陽2016年2月13日)です。希望の未来が皆様を待っています。

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2015年を振り返って

食口の皆様お元気様です。
今年も残すところ2日となりました。
皆様方にとって、今年はどんな年でしたでしょうか?

私にとってはまさに激動の一年。新しい出発の年となりました。
19歳の大学生の時にみ言葉と出会い入教。32年お世話になった家庭連合からの脱会。サンクチュアリ人となりました。今は自分の使命と責任の重大性に遅まきながら気付き、2016年のビジョンを考えながらこの年末を過ごしています。

私は親から愛され、主体性を重んじる教育を受けてきました。「主体性を重んじる」などという言葉を使うとちょっと難しいですが、わかりやすく言えば「やりたいことをやりたいように・・・」子供を信頼して遠くから見守ってくれている。そんな親でした。
実際に親になってみるとそのことの難しさを感じます。

そんなわけで人に「こうすべき」「ああすべき」と・・・アドバイスすることが苦手です。ついつい、その人それぞれの「生き方」があるじゃない・・・と思ってしまうのです。サンクチュアリ人になったのも、誰から誘われたわけでなく、ネットで亨進様のメッセージと出会い、残念ながらお母様の現状を知り、自分で判断し、サンクチュアリに来ました。

さらに悪いことは、楽天的な物事の捉え方をしますので、なんとかならなくても、「なんとかなるんじゃないか・・・」と考えてしまう癖があります。それで「救い」についても、どうせ最終的には全人類、全霊界人が救われるんだからと・・・真剣さが全く足りませんでした。

しかし、ご存知のように、摂理には絶対的に外せない「時」というものがあります。お父様はまさに、その限られた地上における「時」と「果たすべき責任」と闘ってこられました。地上における時間には、限りがありますし、その時における恩寵(神の許し)は限られています。

さて、今日言いたいことの結論は、「真のお父様の権威に戻る祝福」の恩恵の期限が迫っているということです。先ほど私は、
 ☆人に「こうすべき」「ああすべき」と・・・アドバイスすることが苦手です。☆
と申し上げましたが、「真のお父様の権威に戻る祝福」については、「絶対にそうすべき」だと私は言いたいのです。
特に、長年共に苦労をしてきた皆様方には、声を大にして言いたいし、耳を傾けていただきたい・・・
期限は天基7年天暦1月6日(陽2016年2月13日)です
詳しくは 戻る祝福のページ
家庭連合に脱会届を出さなくても、お父様の権威に戻る祝福を受けることは可能だと私は信じます。愛と許しの神様とお父さまはそれを許可してくださっていると私は思うのです。

心に少しでも感じることがありましたら、お問い合わせ下さい。全国対応させていただきます。
サイバーサンクチュアリ教会所属 さいたま市教会長・小林
E-メール: godblessyou6500@gmail.com
電話:050-3552-6681 (留守電の場合はメッセージ入れて下さい。折り返しさせていただきます)

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開拓者の道

お父様のみ言葉より

従っていく人は開拓者ではありません。開拓者というものは、先頭に立つ人をいうのです。歴史を引き継いであがめながら行く人は開拓者ではありません。そうでしょう? 歴史がない場で、歴史を創建していく人が開拓者です。ですから、学ぼうという動機をもっていく人は、開拓者だと言うことができません。そのような人は、ついていく人であり、まねていく人です。

開拓者には、歴史がないのです。決まった方向がないのです。自分自身が歴史であり、方向です。自分が誤った歴史の因縁に結び付けられるようになれば自分自身は自然に破綻し、方向が間違っても自分自身は木っ端微塵となり、その生命の本質も救い難いほど破綻してしまうのです。

ですから、開拓者に信仰の道があったなら、その信仰の道は絶対的な信仰の道なのです。水に溺れた人は助かる道を求めて、藁をも救いの綱としてつかもうとするのです。開拓者には、ついていく歴史もなく、見倣う見本もありません。自分自身が歴史であり、実体であり、自分自身が勝敗の決定を備えなければならない立場であるので、どれほど深刻かということです。開拓者とは、そのような道を行くのです。(四五・三一六)

カナン福地に向かって歩んでいく四十年荒野路程において、日々過ぎていく歳月と共に、一緒に流されていってはいけません。新しい日を準備して前進する群れとならなければ、荒野で鷹の餌になってしまうのです。私たちは、歴史的開拓者だという事実を知らなければなりません。開拓者は困難な環境を切り抜けていき、あすに向かう希望の前に準備の態勢を備えなければなりません。(一九八六・五・六)

————
今の時代が、
1620年、信仰の自由を求めた清教徒を含む102人がメイフラワー号に乗って、
神の国建設のためアメリカに渡ったピューリタンと同じような気がしてなりません。
上記み言葉にある「歴史的開拓者」である自覚を持って準備していきたいと思います。

kansyasai
1621年、最初の感謝祭を描いたもの。
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組織を変えるにはリーダーを変える

きたるべき時に備えるため、積読していたビジネス書を読み返している。
ここ数日読んでいるのが、ジョン・C・マクスウェル著の「統率者の哲学」と「マクスウェルのリーダーシップ集中講座」という2冊の本。
ほんとうにざっくり書けば、「リーダーシップは、先天的な才能や素質を授かっている一握りの人間の能力ではなくて、万人が学び、向上できる能力である」との事。
もちろんそこには日々の絶え間ない努力は必要だ。

また、このジョンさんの語る言葉が受け入れやすいのは、彼が米国でも大手のプロテスタント系のキリスト教会の主任牧師を歴任し、赴任先の教会を素晴らしい教会に発展させてきたその実績に裏付けされた理論だからだ。

今日はその書籍の中から、「組織を変えるにはリーダーを変える」という一項目を抜粋したいと思う。

 リーダーシップの能力は、つねに、個人と組織のパフォーマンスの「蓋(ふた)」となる。つまり、上限を決める。リーダーシップが強力なら上限は上がるし、リーダーシップが乏しければ組織のパフォーマンスにも自ずと限界が生じる。

 だから、問題をかかえた組織は新しいリーダーを探すし、苦境に陥った国民は新しい大統領を選出する。立ちゆかなくなった教会は新しい牧師を求めるし、連敗のスポーツチームは新しい監督を迎える。そそいて、損失を出し続ける企業には新しいCEOが雇われる。

サンクチュアリ教会に所属する、一人一人が 「真のリーダー」です。
この世に大きな革命をおこしていきましょう♪
権力による革命ではなくて、「愛」と、「愛に基づく行動」での革命です。

追伸:
宣教本部のエルダーさんが、なんと!日本語でブログを開始して下さいました!
びっくりぽんで、本当にありがたいことです。
Thank you very much!!
http://worldmissionhq.muragon.com/

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サンクチュアリー教会に行く人は?

どなたかのブログで、宋総会長さんが全国の地区長会議かなにかで、
彼ら(反・家庭連合の人たち)には寂しい思いをさせてしまった。彼らが帰ってこれる愛の教会作りをしましょう・・・と語られたとのことです。
(言葉自体はちょっと違っているかもしれませんが、おおよそそういう意味と読みました)

また、どなたかは サンクチュアリー教会に行く人は、家庭連合に批判的で、摂理のない安易な道を選んだ・・・といわれています。

これは全くのお門違いと言わざるを得ません。

少なくとも私は、そのような動機で(教会批判のハケ口や、ノルマから逃げるために)、サンクチュアリー教会に行こうとしているわけではありません。
私、すばらしい信仰者では全くありませんが、それでも教会(家庭連合のCH)の中では、それなりの役割を担ってきた自負はあります。

ではなぜ?・・・サンクチュアリー教会に行くのか?

それは、お父様聖和後の、教会の変質にあります。

お父様があれほど大切にしてこられた「本体論」が無くなり・・・
ご子女様の自由恋愛の結婚を、お母様が挙行され、
天のお父様が、天の父母様に変わり、
アダムエバの位置が逆転。
もちろん、天聖経や天一国聖歌の改変・・・などなど

そして決定的な内容が、お母様自身が語られた、「独生女」「お父様から教育は一切受けていない」などの宣言です。

このことを知れば、もはやそのように悪魔に支配された教会にいることは出来ない。ということが結論です。

志ある方々と力を合わせ、日本でのサンクチュアリー教会の基盤作りに励みたいと思います。
まさに開拓ですね。

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